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紫式部と
ゆかりの地

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紫式部※石山寺所蔵「紫式部図」(土佐光起筆)

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Trip of prayer

紫式部と祈りの旅

紫式部はなぜ大津を訪れ、何が彼女に筆を執らせたのか──
平安時代の「旅」と「文学」について紹介します。

紫式部と石山寺の月

「なにか物語を書いてちょうだい」
お仕えする中宮彰子に命じられた紫式部は、石山寺に七日間滞在しました。
「石山の観音さま。わたしに、まだ誰も読んだことのないような物語を書かせてください」そう祈り続けます。そしてびわ湖に映る中秋の名月を見たとき、紫式部の脳裏に一人の貴公子が思い浮かび、『源氏物語』須磨 すま の巻を書き始めた──『石山寺縁起絵巻』などが伝えるお話です。

紫式部はその文才で世に知られ、時の権力者であった藤原道長が一条天皇の正妻である娘の彰子の女房(お仕えする女性)になるよう望みました。知性ゆたかな女房が多く仕えているということは、彰子にも知性があると一条天皇に思っていただくためです。女房となった紫式部は彰子に漢文学を講義するなど、家庭教師のような役割を担いました。彰子が物語の執筆を命じたのも、紫式部にそれだけの知性があったためです。

当時、女性たちは心に切実な願いがあるとき、寺社へお参りに出かけました。恋が実りますように、子供を授かりますように、夫が出世しますように──いわゆる「現世利益げんせりやく 」と言われる、現実での幸福を望んでのことでした。当時人気の寺社といえば、願いを叶えてくれる「観音菩薩かんのんぼさつ 」を祀るお寺。なかでも石山寺のご本尊・如意輪観音にょいりんかんのんは大人気で、紫式部もこの観音さまの力をいただいて物語を書こうとしたのです。

びわ湖と月

びわ湖と月

石山寺本堂

石山寺本堂

心を解き放つ旅──石山詣

いまも石山寺を詣でると、本堂前に突き出る巨大な硅灰石けいかいせき に圧倒されますが、この奇岩のパワーによって古くからこの地は聖なる場所として崇められてきました。奈良時代にはこの硅灰石の上にお堂が建てられ、石山寺の歴史が始まります。
観音さまのパワーを求めて都を出発した女性たちは、逢坂山を越えて大津に出ると、びわ湖の打出浜から舟に乗って瀬田川を下り、石山寺の山門をくぐります。そして堂内の「つぼね 」と言われる小部屋でひたすらお経を唱えるなどして、夢の中で観音さまのお告げを待つのでした。

蜻蛉日記かげろうにっき』の作者である藤原道綱母ふじわらのみちつなのはは は夫の心が離れていくことに絶望し、大津の唐崎からさき神社で行われていた「唐崎のはら え」や石山詣に出かけては、心の濁りを流そうとしました。石山寺を訪れた道綱母は御堂で涙を流しながら仏さまに訴えます。心身苦しい旅ではありましたが、心に沁みる大津の風景や、祈りの中であふれ出す想いなど、あますことなく筆に託しました。

和泉式部いずみしきぶの『和泉式部日記』や菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめの『更級さらしな 日記』にも石山詣の様子が描かれています。恋多き歌人としてもてはやされた和泉式部は石山寺でも恋の歌を詠み、孝標女は不思議な夢を見たりします。

筆を執る女性たちの五感をどこまでも刺激する、祈りの旅。見たこと、感じたことを誰かに伝えたい──そんな思いが平安女流文学を豊かなものにしたのでしょう。
紫式部もそんな女性の一人でした。

びわ湖

びわ湖

唐崎神社

唐崎神社

『源氏物語』に描かれる大津

紫式部本人の筆による旅の記は残されていませんが、『源氏物語』にも大津が描かれています。

その一つは逢坂の関。当時、都から東国・東海地方へ向かうには京都と大津をつなぐ逢坂山を越えていきました。『源氏物語』の「関屋」の巻で、光源氏が石山寺に向かう際もこの関を通ります。そして偶然、かつて契りを結んだ空蝉 うつせみ とばったり出会うのです。華やかな光源氏の行列に圧倒され、空蝉は息をひそめて過去を想い、光源氏から遠く離れてしまった自分の身の上を悲しみます。

このように人と人が出会う場所が逢坂の関。そのことを詠み込んだ古い和歌がありました。
 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸・『百人一首』10番)
多くの旅人が往来し、知る人も知らない人も「逢う」坂。この和歌を踏まえて「関屋」の巻は描かれたようです。

もう一つ、比叡山延暦寺が『源氏物語』で重要な役割を果たしています。薫と匂宮におうのみやという二人の貴公子に愛されたヒロイン浮舟うきふね は、心を引き裂かれて入水しようとしますが、〈横川よかわ僧都そうず〉に助けられます(「手習」巻)。
横川は比叡山にある横川中堂を中心とした地域で、平安時代にここで浄土信仰を広めた源信げんしんが〈横川の僧都〉のモデルとも言われます。

俗世の迷いから抜け出したい浮舟を出家させたのも〈横川の僧都〉。薫が浮舟のもとに案内するよう横川を訪ねますが僧都は応じず、浮舟はすっぱりと想いを断ち、この長い物語は終わります。恋物語では終わらせず、女性にとっての真の救済を描こうとした紫式部。その大事な舞台のひとつが比叡山延暦寺の横川でした。

物語を支える舞台として何度も描かれる大津は、紫式部にとって特別な場所であったのかもしれません。

逢坂山関址碑

逢坂山関址碑

比叡山延暦寺 横川中堂

比叡山延暦寺 横川中堂

The places associated with Murasaki Shikibu

ゆかりの地をめぐる

※藤原道綱母の『蜻蛉日記』より推定した当時の石山詣ルート

石山詣ルート

❶石山寺

石山寺 東大門石山寺 東大門

奈良時代より霊験あらたかな観音霊場として信仰を集める東寺真言宗の大本山。平安時代には石山詣が流行し、多くの貴族や女流文学者が訪れました。なかでも、紫式部が滞在中にびわ湖に映る満月を見て『源氏物語』を起筆した伝説は有名で、本堂(国宝)には紫式部が筆を執ったとされる「源氏の間」があります。紫式部や『源氏物語』ゆかりの寺宝も多く所蔵されており、物語が誕生した時代のおもかげを感じることができる名刹です。

住所:滋賀県大津市石山寺1-1-1

❷逢坂の関

逢坂山関址碑逢坂山関址碑

京の都から近江(滋賀)へと向かう要所にあり、東海道と東山道の2つの街道が通るため、交通の要衝となる重要な関でした。そのため、出会いや別れの場所として、「逢う」や「関」に掛けた歌が多く詠まれました。なかでも蝉丸が詠んだ「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という歌はよく知られています。『源氏物語』の「関屋」の巻では、石山詣に向かう光源氏が、若き日に契りを交わした空蝉 うつせみ と再会する舞台となりました。

住所:滋賀県大津市大谷町22

❸びわ湖(打出浜)

びわ湖(打出浜)びわ湖(打出浜)

逢坂の関を越えた貴族が舟で石山寺へ向かった出発の地とされ、『枕草子』にも「浜は、打出の浜」と記されます。また若き日の紫式部も父・藤原為時の越前赴任に伴い、この地から旅立ったと伝わります。その舟路で三尾崎を通ったとき「三尾の海に綱引く民のてまもなく立居につけて都恋しも」と詠み、その歌碑が白鬚神社(高島市)に建立されています。

住所:滋賀県大津市打出浜

❹園城寺(三井寺)

三井寺 金堂三井寺 金堂

飛鳥時代に起源を持ち、平安時代には朝廷や貴族から崇められた天台寺門宗の総本山。なかでも藤原道長が深く信仰したことは知られ、道長の奉納と伝わる弥勒菩薩が金堂(国宝)に祀られています。紫式部にとっても縁の深い寺であり、おじの康延 こうえん と異母兄弟の定暹じょうせん はこの寺の僧侶でした。また紫式部の死後、70歳を過ぎた父の為時は三井寺で出家し、娘をしのぶ日々を送ったと言われています。

住所:滋賀県大津市園城寺町246

❺比叡山延暦寺

比叡山延暦寺 根本如法塔比叡山延暦寺 根本如法塔

比叡山全域を境内とする天台宗の総本山。紫式部と同時代を生きた比叡山延暦寺の僧侶・恵心僧都源信は、『源氏物語』の「宇治十帖うじじゅうじょう 」で浮舟の命を救った〈横川よかわ の僧都〉のモデルといわれます。『源氏物語』の「夕顔」の巻では、比叡山延暦寺の西塔にある法華堂で、光源氏が夕顔の49日法要を営みます。また最終章「夢の浮橋」では、東塔にある根本中堂を詣でた光源氏の息子・薫が〈横川の僧都〉を訪ね、仏門に入った浮舟との再会を訴えるのでした。

住所:滋賀県大津市坂本本町4220

❻慈眼堂

慈眼堂慈眼堂

比叡山麓の坂本にある慈眼大師天海の廟所。天海は徳川家康・秀忠・家光に仕えた僧侶で、織田信長の焼き討ちで荒廃した比叡山延暦寺を復興した傑僧として知られています。紅葉の隠れた名所でもある境内には家康の供養塔のほか、紫式部、清少納言、和泉式部 いずみしきぶ ら平安時代の女流文学者の供養塔がのこり、秋は石灯籠を覆う紅葉が侘びた風情を醸し出します。

住所:滋賀県大津市坂本4-6-1

❼日吉大社

日吉大社 山王鳥居日吉大社 山王鳥居

日本各地の日吉・日枝・山王神社の総本社です。『源氏物語』にも登場する 法華八講ほっけはっこうを「山王礼拝講さんのうらいはいこう」として行われている神社。 法華八講とは天台宗の根本教典でもある『法華経ほけきょう 』を講義する法要で、「山王礼拝講」は現代において非常に珍しい神仏習合の祭事です。『源氏物語』の「 賢木さかき」の巻では光源氏の父・桐壺院の一周忌供養で法華八講が営まれますが、同時に光源氏が恋焦がれる藤壺の中宮が出家の決意を表明する、重要な場面として描かれています。

住所:滋賀県大津市坂本5-1-1

❽浮御堂

浮御堂浮御堂

近江八景「堅田かたた落雁らくがん 」で知られる浮御堂は、〈横川の僧都〉のモデルとされる源信が、びわ湖上の安全と人々の救済を願い建立したとされます。創建にあたっては源信みずから1000体の阿弥陀仏を刻んだといわれます。湖上の浮御堂からは伊吹山や長命寺山、沖島など滋賀の名所が望め、松尾芭蕉、小林一茶、歌川広重や葛飾北斎ら近世の文化人からも愛されました。

住所:滋賀県大津市本堅田1-16-18

❾唐崎神社

唐崎神社唐崎神社

近江八景「唐崎からさき夜雨やう」で知られる霊松 たままつが印象的な、日吉大社の摂社。平安時代には天皇の災禍を祓った「七瀬ななせはらえ 」の一所とされ、藤原道長の『御堂関白記みどうかんぱくき』には、道長が唐崎に祓いに出かけたことが記されています。また、『源氏物語』の「少女 おとめ 」の巻にも、光源氏の家来の娘が唐崎で祓を受けた記述があり、当時の貴族から「祓いの聖地」として認識されていたようです。

住所:滋賀県大津市唐崎1-7-1

❿融神社

融神社融神社

光源氏のモデルの一人といわれる嵯峨天皇の皇子・源融みなもとのとおる 公を祀る神社。静寂の境内には融公を祀る本殿と、母である大原全子おおはらのぜんし を祀る脇殿に加えて、拝殿と11の社があります。融神社に伝わる由緒によれば、融公は領地である南庄村に邸宅を構えて住んだと伝え、後の時代に邸宅のあった山上から掘り出された鏡を祀ったことが、融神社の始まりとされます。4月29日には春祭りが営まれ、神輿渡御 みこしとぎょ が行われます。

住所:滋賀県大津市伊香立南庄町1846